愛が歪みがち日記

歪んだ愛を原動力にEXOで何かを分析したくなったアラサーの独り言

推しと私と消費とぬいのただならぬ関係

あっというまに2月も終わりそう。外はもう春のような陽気ですが、私は変わらず冬眠から目覚められないまま、春を迎えそうな予感をしています。私の春はいつ来ますか!?もう一生来ないかも。そんな不安を抱えつつ過ごす毎日、そこで感じたこともろもろ雑記です。

いまこれを書いているのは17時過ぎで、まだSHINeeの〈Don't Call Me〉はリリースされていないんですけど、記事は予約投稿するので、これがアップロードされてるときは聴きまくってるんじゃないかな…。

 

 

 

 

 

毎日bubbleでひとりごとをつぶやく

ギョンスがbubbleやるっていうんで登録しました。これまでずっと「事務所は親密な関係性売りするんじゃねえ!!!」とキレ散らかしていた側だったくせに。いやギョンス…はやらないと思ってたんですよね…拒否権行使するんだろうなと思ってたんだけど…除隊VLIVEでつやっつやの笑顔で「明日からbubbleやります(ほくほく)」といわれてしまったらさすがの他ペンも耐えられないですよね!!!?!?!?

www.vlive.tv

アプリをインストールして、さっそくギョンスとしうちゃん、そしてSHINeeのオニュさんとミノくんを登録しました。

いやここでSHINeeとは急にどうした!?って感じなんですけど。チェンくん不在の間、なぜか私の目に入ってくるようになったのがこの2人だったので…。ふたりともお誕生日のVLIVEが一生懸命でとてもかわいかったし(スタッフの力を全力で借りてるところ、そしてそれを隠そうともしないところ)、とくにオニュさんに関してはたい焼きコンテンツ以降、常に癒しを分けていただいているので…せっかくやるなら2人も登録して、EXO以外の関係性を複数作っておこう~と思った次第です。

威神ちゃんを登録するという選択肢もあったのですが、日常に疲れすぎてると、20代前半の男の子たちのテンションについていけないと気付いたアラサー女には、自分と同世代のアイドルをめでるほうが精神的に楽なようです…*1

 

実際やってみると、そこまで親密性は強く感じないというか、どちらかというとAIスピーカーと釣り合わない会話をしている感覚に近かったです。そう感じるのは、私がハングルの読み書きができないのでリアルタイムで会話に追い付いていけないってことも関係しているだろうし、 最初から「この発言は世界中のサブスク購読者に発されているんだなあ」と想定していると、相手の言動もすごく非人格的に思えてくるというか…もちろん本人が発信していることはわかるんだけど、どこか虚構のような風情を覚えてしまいます。

たしかに直接メッセージを送ることもできるのでコミュニケーションを取れているように錯覚するんだけど、あくまでそれはUI上の見え方によるものであって、ほんとうに相手が自分の投稿したメッセージを読んでるかどうかなんてわからないわけですよね。そんなデザインに騙されねえぞ!という気合いもある。それに、「まあどうせ読んでもらわなくても別にいいや」と思っているので、AIスピーカーに寂しく話しかける感じで楽しんでいます。

まさに「ひとりごと」して遊んでるようなものです。

でも、たまたま気が緩んでいるときにbubbleがくると、ちょっと嬉しくなってがんばってパパゴ駆使して返信しちゃったりするし、オニュさんに対して「おはよう」と「おやすみ」を日常的に繰り返していることに気が付いてしまうと、、、案外自分もちょろいもんだな、と思うよ。ばくはつしてえ…。。。

 

 

 

「男らしさ」を消費して、社会に適応する

ちょっと前に、「EXOのメンバーとどんな仲になりたいか?」みたいな妄想マッピングをつくったんですが(現在は非公開)、そのときにいろいろと考えました。アイドルを消費すること、特に「男らしさ」を消費するって、自分にとってはどういう意味があるんだろうかと改めて考えました。ずっと前に1本記事書いてから、もうすこし丁寧に説明できるようになりたいなあと思いながら、考察が深まらずずっと放置しているテーマなんだよね…。

 

前々からEXOのメンバーの立ち位置マップみたいなのを作るとしたら、横軸に「男らしさ」、縦軸に「性的な魅力」みたいな四象限しか作れないな~、と思ってたんですね。実際、以前にそういう四象限作ってふぉろいーさんたちと話をした記憶があるんだけど、その時のメモが残念ながら残っていない…。

 

私は、自分を「女」という性別に固定させたときに、それぞれのメンバーが自分にとってどれだけ異性(「男」)として性的消費に耐えうる存在かどうか、という評価軸でEXOのみなさんをまなざしているんですね。

「かっこいい/かわいい」で二分する方法もあるのかもしれないなと思うのですが、それだと私にとっては全員「かっこいい」に入ってしまうのであまり意味がなく、やはり自分にとってどうしたらEXOをより理解できるだろうかと考えたら、その2つの軸(男らしさ/性的な魅力)が必要になる*2

 

実際のところ、人間は男/女で分けることも、恋愛関係が異性間でのみ成立することが当然とされるのも、時代や文化による恣意的なものでしかないので、私自身はあまり信用していません。だけど、今の時代のカルチャー(っていうか最近のSMコンテンツ)に乗っかるためには、ある程度そういう旧来的なジェンダー観…女/男という性別二元論と異性愛至上主義文化に適応しないといけないのかな~と思っているんですわ。

男女二元論と異性愛文化を前提として、その文化の公式の中で自分を「女」に、EXOを「男」に代入することで、ようやくEXOをコンテンツとして楽しむことに納得できる(消費に耐えうる)、という感じ。だから「男らしさ」と「性的な魅力」という評価軸しか機能しないのかもしれない。

 

何となく自分の性自認を歪ませながら楽しむ感じ。この居心地の悪さ。性を問われない固有の存在として消費するのではなく、あくまでも「女」という性別カテゴリーに自分を含ませて、「女」なるカテゴリーが「男」というカテゴリーに対して抱くことがふつうとされている「かっこいい」とか「セクシーだ」といった情動に、自分も同調することで、EXO(あるいはナムグル)を安心して消費しているのだろうな~と思うと、なんというか、それはそれで虚しい気持ちになる。私は彼らの何を見ているのだろうか?…と。同時に、そこまでして「女」に適合する必要があるのか?とも疑問に思う。

 

でもこれも、K-POPというカルチャーを消費するためには乗り越えられない構造なのかな、とどこかで思ってしまっている自分もいる。

 

K-POPって、表層を見てるだけならジェンダーレスに見えるけど、実際に曲やパフォーマンスを見ると、めっちゃジェンダー役割はっきりしてるし、特に女性アイドルは全くもって「女」という性別に向けられる期待をクラッシュできてないと思ってるし、ジェンダーを攪乱する効果を持つポップカルチャーではないと思っている。個人的にはね。

というか「コンセプトを演じる」のがお仕事のアイドルが「主体性」「自我」を持つ、ということ自体が矛盾っていうか、論理的に成立しがたいよなとも思うし…*3

K-POP自体がそういう制約の多いカルチャーで、その制約の中でどこまで上へ飛べるか?ということを試行錯誤するのが楽しい部分ではあるかもしれない(ジェンダーレス的で素敵!というインパクトを与えるには、やはり、はっきりとした男女の区別がなされている土壌がありきで、それでこそ新鮮に映ることが可能になるのだと思うので…)。


だから、わりと不本意ではありつつも、気楽にカルチャーを楽しむ(消費する)ためには、社会の価値観(「こうあるべき」「こうあることがあたりまえ」)に適応することが必要なのかなと、どこかで私は白旗をあげてしまっているのかもしれない。もう少しゆるく表現するなら、私はSMエンタのコンテンツを通して、社会の「あたりまえ」の価値観への適応の練習をしているともいえると思う。

社会に対してむやみやたらに牙を向けずにいるための練習をしているんだろうな。

もうずっと社会と闘ってきたから、いい加減しんどいので、自分にとっては多少疑問があってでも、もういいや、もう何も考えずにラクなカテゴリーに巻き込まれてしまいたいよ…と、投げやりになってしまっている部分があるように思う。楽になりたい。そういう気分が、少なくともこの2年くらいの自分には、確かにあるような気がしている。

 

 

 

推しグッズとぬいぐるみは同じかもしれない

本を買うのが好きだ。コロナ前なら、お気に入りの書店に行っては、平積みされている新刊などをざっと確認し、気になるものを見つければ買う、というのを定期的におこなっていた。コロナ後は、SNSで見聞きした本をすぐオンライン書店でチェックし「お気に入り」登録、ある程度の冊数がたまったら一気に買う、というのを毎月繰り返している。書店から家まで持ち帰り可能な重さかどうか、気にせずに済むようになったのが運の尽きだった。本の値段も見なくなった。送料無料になるかどうかで気にするが、当然ながら毎回無料になる値段を優に超えている。

アイドルグッズを買う時は、たとえチェンくんのものであっても、ひとつひとつものすごく悩みに悩んで、クレカの決済金額と相談しながら慎重に選んで買う/買わないを決めるのだけど、本に関してはそういうみみっちさが一切発揮されない。私はドルオタではなく「本買い」オタクといったほうが正しいのかもしれない(そもそもわたしはドルオタではなく、ただの「ガリ勉」という自認です…)。

買いまくる割に読む体力はないのでどんどん積読がつもりにつもって、いまもうすでに30冊ほどが、今か今かと読まれるのを待っている状態である(し、何年も本棚にしまってあるだけのものも10冊以上はある)。しかもまだ届いてない本もある。これは過去稀に見るほどの重症レベルのスピードである。

それでも少しずつ少しずつ読み進めていて、そのたびにフリートにアップしたりしている。数か月前よりだいぶ脳がおだやかになってきたので、本が読めるのはありがたい。

 

でまあ、最近、文芸誌の『ユリイカ』の特集「ぬいぐるみの世界」を読んでいて、「わ、これは私の、アイドルの見方とすごく似てるわ…」と思わされた文章がありました。小説家の大前粟生(おおまえ あお)さんが書いた「ぬいぐるみといると消えていられる」(『ユリイカ』2021年1月号(特集・ぬいぐるみの世界)、67~70頁)というエッセイです。気になった部分をここに抜粋して、コメントしてもいいですか(いいよ!)。

なお、大前さんは『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』という小説を上梓されています。この作品の執筆経験を受けてぬいぐるみを集め始めたそうです。私はまだ未読なので、いつか読みます。読んだことある人がいたら感想を教えて下さい…。

 

 ぬいぐるみに対して「買う」「手に入れる」というのは書いていて抵抗があります。でも私は実際に買っているし、ぬいぐるみを私が所有しているものとして自分の部屋に招き入れるのは少し罪悪感を感じるようでした。
 そして同時に、画一的にディスプレイされていた店内から、私が買うことによってすくいだしてあげた、クレーンゲームの箱のなかから、私がゲームをクリアすることによってすくいだしてあげた、という感覚によって上昇した自己肯定感もありました。お金と共犯するようでグロいなあと思いますが、その自己肯定感が湧き上がった瞬間、私は愛のようなものにまみれていて、そこにグロさもあるからこそ余計に愛のようなもので体が浮き上がりました。
 ぬいぐるみたちといっしょにいることそのものはとても心地がよいです。ぬいぐるみたちにとってもそうであったらと切に願います。けれどもこうやって「ぬいぐるみ」というものを考えるとき――自分で作ったり、何年も生活を共にしているとまた話はちがってくるのでしょうが――まだぬいぐるみとの生活が浅い私は、ぬいぐるみたちが商品であったことへのしんどさみたいなものが先に来てしまいます(前掲書、68頁、太字は引用者による(以下同))

オオンこれ完全に私がアイドルコンテンツ買う時の気持ちじゃん…と思ったんですよね。K-POPのみならず数多いるアイドルたちのなかからEXO…とくにチェンくんを見つけだし、彼のグッズを買い、彼のパフォーマンスを消費し、交歓し合う中で手に入れた自己肯定感や自尊心みたいなものがあり、そこで生じた情動を「愛」とか「敬意」で語りたくなるのは確かなんだけど、それはすべて「カネ」を介して手に入れた商品なんだぞ!はかない夢なんだぞ!とどこかで冷静に、その虚構を自覚してる自分もいる、この奇妙な感覚にとても近いぞ!と思った。 

 

 そういった(引用者注:大前さんの執筆された作品に出てくる「人間とそれ以外の間に広がるグラデーション」のような)なんらかの境をこえた登場人物やぬいぐるみに対しては、人間と接するときよりも一層、「他人だし、自分が自由にできるものだからこそ尊重したい」みたいな意識が強いです。でもそれはなにかよいものでも全然ない気がします。尊重したい、というのは暴力的なんでは……とこの頃よく思います。だからこそ、というと都合がよいですが、私が書いた小説が本になって流通していてよかったな、と思います。本になって、だれかに買われて所有され、誰かに読まれることによって、作者である私と登場人物の関係が外れる。著者として本をレペゼンしてはいますが、読まれているときそこに私はおらず、登場人物がそれぞれの生を生きている。その様子を想像すると、とてもうれしくなります。私がいないことに感動します。登場人物は本を読むあなたのなかで動き、そして彼女ら彼らは、あなたと新しく関係していくのです。(前掲書、69頁)

アイドルに対する「あの子の意思を尊重したい」ってうのは結構特殊な感情なのかな、とここで気づかされた気がしました。「暴力的」という表現が適切なのかわからないけど、相手(アイドル)の意思とは、時空間的にも、もちろん人格としても切り離されたところで、私が勝手に「チェンくんの意思を尊重したい!」と叫んだところで、それは私の一方的なエゴであって、意思を尊重しているようで自分の意思を押し付けることにもなるのでは? という危うさも含まれているのだと思いました。

もちろんその他者を尊重する気持ち自体は悪いことではないのだと思うけど、この救いがたいエゴイスティックな感情(「尊重したい」)も、別途「自分も他者に晒される」側になることによって解除できるかもしれない、という可能性もあるのだなと感じた。それは私にとってはこのオタブログを書いて、世界中に自分のみっともない脳内を晒すことかもしれないし、Twitterでめんどくさそうな議論をすることかもしれないし、アイドルとは全く違う文脈で何かを書いて誰かの目に触れたいと願ってしまうようなことで、「尊重したい」というエゴから抜け出せるかもしれない。

そうすれば、私とアイドルは、同じ地平に立てるのだろうか。

誰かに評価されるという地平にたどりつけるのだろうか。

自分ではない誰かの脳内で自分の生み出した言葉や感情がねばねばと繁殖していくことを通して、私もまたアイドルの「気持ち悪さ」を共に経験することができるようになるのだろうか。新しい関係が開けるのだろうか。

 

 いまこの時間、ぬいぐるみはここにいるのに、私に話しかけてこなくて、私に触れてきません。なにもせずにいてくれます。
 そして私もまた、ぬいぐるみに対して、なにもせずにいることができます。
 ペットや植物とちがって、ぬいぐるみはいるだけで生存していてくれます。もちろん適宜、修理などは必要ですし、それはなされるべきだと思いますが、基本的にはいるだけでぬいぐるみはぬいぐるみとして存在し続けてくれる。なにもしない、ということが無視にはならない。無視する、という行為がぬいぐるみに対しては発生しないのかもしれないと思います。(前掲書、70頁)

 チェンくんの顔は、勉強机周辺に10人以上散らばっています。彼を写した写真やトレカは、基本的にはなにもしてくれません。ただそこにいるだけです。私のほうを一方的に見ていたり、見ていなかったり、さまざまです。ただ、私がそこに置いただけであり、それ以上、モノは動きもしなければ、しゃべりもしません。でも、そこに「置く」だけでチェンくんは私の中で存在することになります。また、私がなにか、チェンくんの顔写真に働きかけることがなくても、チェンくんは私の机のまわりでじっと私を見守っています。このことをチェンくん自身は知りません。知っているのは私だけ、そして今これを読んでいる人たちくらいしか知らない。そして、この事実をチェンくん自身が知らなくても、キムジョンデ個人の人生には何の影響もないんだろうなと思う。ここにいるのは、個人の生ではない、何か別のもの、「偶像」「イメージ」とか、そういう観念的なものなんだろうなと思う。だから、「気づく」「意識を向ける」ということを、私が意識的にする限りは、彼はそこに存在し続けるんだろうなと思う。モノの中に「チェンくん」が宿り続けるんだと思う。宿しているのはこの「私」なんだよね。

 

 とはいえやはり、私は部屋のなかにいて何の気無しに手を伸ばすだけでぬいぐるみに触ることができてしまいます。どのようなことも、一方的にぬいぐるみに話すことができてしまいます。ぬいぐるみにとって、私というものは不気味な存在かもしれません。私を不気味でいさせてくれてありがとう、なんてこともどうしてか思いますし、でもとどのつまりは、私もあなたたちにとって無害であればありがたくって、あなたたちが好きなことをしているのをそっと見ていたいです。よかったらたまにいっしょにお茶したり、あそんだりもしましょう。(前掲書、70頁)

「不気味でいさせてくれてありがとう」というのはすごく、わかる。ああ、私をキモいペンでいさせてくれてありがとう(そしてすみません…)とは思う。「キモい」というのは、なんというか、「全くの赤の他人なのに、なぜかその人の幸福を祈らざるを得ない衝動に駆られる状態」のいびつさみたいなものへの私の心情というか…そこには「好き」「うれしい」「たのしい」「ありがとう」というポジティブな気持ちに溢れているんだけど、それを発すること自体がやはりどこかエゴイスティックであり、それでもアイドルにとっては自分は味方でありたい、アイドル個人の人生を邪魔したくないと思うし、彼らが望むように生きるところを、コンテンツを介して断片的にでも見守らせてくれたらうれしいと思ってしまう。でも、これもある意味わがままなのだろう、と、どこかで自覚しつつも、やっぱりまたいつかコンサートで会いたいです、と思ってしまう。

 

とまあ、なんかまとまりのないコメントなのだが…。大前さんの文章の中に、自分がEXOを追いかけているときに感じている「居心地の悪さ」「すわりの悪さ」みたいなものの片鱗を見たような気がした、っていうことなんですね。一言で言ってしまえばなのですが。

ここでさっき話してきたような、bubbleでの親密性の演出、「男らしさ」と「性的な魅力」の消費、そういったトピックも、もう少し丁寧に絡めて論述できそうな気がするんだけど、そこまでまだ元気じゃないのですみません先送りします。

 

 

ともあれ今回のトピックで共通しているのは、「生身の人間ではない存在とのあわいにある居心地の悪さ」なのかもしれないな。まあでも、K-POP好きになって、「アイドル」とカテゴライズされる人たちを消費するようになってからは、ずっとこの居心地の悪さと一緒にいるような気がします。なので、自分の意識がはっきりしているうちに、この居心地の悪さに多少なりとも結論をつけてあげたいなと思う。蹴りをつけること自体が、自分が存在することを証明することにもなるんだろうなと思えば、よほど。

 

 

 

 

*1:こののち、えんしてぃの若え子たちのbubble比較メモみたいなのがRTで回ってきて、ああほんとに登録しなくてよかった、私には相手にできん…とおもったのでした

*2:当然ながら「男らしさ」「性的な魅力」ともに高次元をたたき出したのはキムジョンデただ一人である

*3:某坂道グループの曲を思い出している…あれは歌っている子たちは相当つらかったのではないか…