ベッキョンじゃなかったら、ここまで揺さぶられたりしない

 

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あきらめ悪いケーポオタクライフ

もう限界だ、限界だ、と苦しんでいたのが1年半ほど前。

特に昨年は最愛のチェンくんの日本ソロコンツアーにまともに参加できなかったことで、とうとう心が折れて、そのほか諸事情もあり、オタクで熱狂しているどころではなくなった。

とはいえ音楽は聴き続けていたし(アイドルよりコリアンヒップアルエンビーに重点は移行しちゃったが)、EXOが嫌いになったわけでもないのでずっと応援していた。

ただ体調の関係で、昔よりも感情が震える程度が低くなってしまった、感度が鈍くなってしまったというのもあり、以前のような「語彙の狂ったオタク」はできなくなってしまった。

「狂うこと」ができていた数年前のテンションを思い出して、「あの熱狂はもう、自分にはやってこないんだ…」と思うと悲しいような虚しいような、でも狂ってない状態のほうが気分は落ち着いてて日常生活が送りやすくなるのも分かってた。

 

飽きているわけじゃないけど、嫌いになったわけじゃないけど、つまらないわけじゃないけど、自分が「感動している!」という感覚、ふるえやすい感性から、どんどん遠ざかっていくのがわかる。そのことが悲しくて虚しい。

 

それでもあきらめ悪くコンサート行ったり、CD買ったり、音源あさったりする。

アイドルを応援する分量は減ったけど、ほかのラッパーとかプロデューサーの音盤買ったり、ラッパーが出演してるYouTubeチャンネル見たり、その結果 피식대학 (ピシック大学)にはまったり*1

 

そんで、「あのラッパーのライブ行きたい」「韓国のヒップホップのフェス行きたい」みたいな気持ちはやっぱり消えない。渡韓するのはまだまだ心身の負担が大きく現実的に考えられないので、来日公演があるなら絶対逃したくない欲がますます強くなってる。

でも、「ああ、シンガーが来日公演するけど深夜のクラブ公演か…」「このアーティスト見に行きたいけどほかの予定との兼ね合いでこの日は外出したら体がきつい…」みたいな感じであきらめることも、そこそこ起こる。

ただ、これも表向きそう言ってるだけで、本当はチケット代が高い(10,000円超)を支払うゆとりがないというのも大きい。1年半前に「カネがない!」と叫んでた頃よりだいぶ収入は増えたんですが、低所得から脱却できたわけではないので…。

 

趣味への課金は自分の収入に左右される。自分が労働に精を出せる状態じゃないことは分かっているので、自分の可能な範囲で、そんなに欲張らず、適度に、いろいろ工夫しつつやっていけばいいや、なんて考えがだんだん身についてきたわけですが、今思うと、この「カネがない」という言葉で自分を言い聞かせて妥協させるのは、あんまりよくなかったかもしれないなと、最近気づいた。

 

きっかけは、ベッキョンのソロコンに行ったことだった。

 

 

「プロフェッショナル」からしか、得られない

東京公演は2日目だけ行きました

チケットは先行で1枚しか当選せず、一般発売も日程を失念しており、東京公演2日目だけ行くことになる。初の武蔵野の森。天気はあまりよくなかった。

座席は4階スタンド、列自体はわりと前方だったが、センステからさえそこそこ遠くて、まあでもギリギリ正面から見れないこともない…「これなら応援もあんまり頑張らなくてもいいや、着席でゆったり見るわね~」と思えるほど、欲が出ない席。

でもこの私の考えが間違いなわけ。ベッキョンを前にして、「ゆったり♪」なんてありえないんですよ、ええ、ありえんのです。ありえんかったんです。

 

私が、やられたー!!ってなったのは、3曲目の”Stay Up”です。ミニ1集収録で、トラックメーカーはおなじみのCha Cha Malone(チャチャマローン、「アイニーダチャチャビボイ」の人です)で、韓国ヒップホップワントップラッパーBeenzino(ビンジノ)がフィーチャリングしてる曲。今年になってからビンジノをチラチラ聴き始めたこともあって、この曲がセトリに入ってると知った時、「ビンジノパートどうなるんだろうな~」って気になっていたんですね。

その結果はネタバレになるので言いませんけど、って言いつつ、どうせもうみんな知ってるだろ?と思うんで言うんですけど、ビンジノは武蔵野の森に来なかったし、ビンジノの声さえも流れませんでした。ベッキョンオリジナルラップパートに変わってたんです。しかもビンジノのセクシーでディープなバイブスとは全く異なる、ベッキョンの声にぴったりな、コンサートの雰囲気を一気にぐわーーっと持ち上げるようなパートに、生まれ変わってたんですよ。歌詞は聞き取れなかったんですが、まるで光に走って向かっていくようで、すごく印象的だった。

 

これが、この時にね、ひさびさに、脳を突き抜けるような、「これだ、これがコンサートだ!!自分が予想もしていなかったところからすげえもんをぶつけられる!!これがコンサートだ!!エンタメだ!!俺の好きだったK-POPだ!!」って、その1曲だけで、いやそのブリッジ部分だけで、私が思い悩んできた、「オタクつらい、しんどい、カネばっかりかかる」みたいな鬱積した気分が、すべて報われたような気持ちになったんですよ。

 

もちろんこの曲以外でも、彼はずっと圧倒的な歌唱力で生歌を披露しまくり、ダンスも欠かさず、メントも日本語と韓国語を交えながらも丁寧かつ愉快に、エリ達の気持ちを揺さぶるフレーズを繰り出し、セクシーコンセプトから、ダンディから、ポップかわいいまで、どのセクションのコンセプトもすべて、1ミリのずれもなく演じ切っている。

「アイドル」という枠のなかで、どこまで自分の能力を表現できるか、それを追究してやまない「プロフェッショナル」のすがたが、見えたんですよね。

 

ステージの上で、「プロのアイドルとはこういうものだ」という彼の美学が、ぼうぼうと燃えている、会場の空気をぐらぐらとゆさぶり、オーディエンスはその熱気に飲まれて、ベッキョンの魅力に引き込まれてどっぷりはまってしまう。ベクペンさんたちが元来熱狂的だというのもあるんだと思うんですが、それにしても、あの会場を一人で巻き込んでいくベッキョンの気迫には、本当に、衝撃を受ける。

 

後半のほうで彼は「席が遠いみなさんも、疎外されてると思わないでくださいね」と、発言したんだけど、それに私がギクッとしたのは、それだけ彼が会場の様子や雰囲気を把握してるということが伝わったからだ。「席とおいし、もう頑張らなくてもいいや」と思っていた私の態度を見透かされたようだった。

こっちがステージを見てるんじゃなくて、ベッキョンもこっちを見ている…むしろベッキョン「が」こっちを見ていて、どんなことをすればエリが喜ぶのか、自分がどう見られたら相手に魅力的に映るのか、手玉に取られているんじゃないか。

 

東京公演があまりにも良かったので、注釈席で千葉公演にも行ってきたが、東京公演よりも公演内容をわかってみることができた分、音楽やパフォーマンスに集中できたような気がする。

注釈席という割にはステージが近くて、もちろん真正面から見ることはできなくても、東京公演よりもずっと「私は今すごいプロフェッショナルアイドルの舞台を見ているんだ」と思えた。注釈席でも見たかった、それだけ「ベッキョンのコンサートからでしか得られない感動がある、確実にある」と、わかっていたので。

 

 

「私だけの感動」を抱いておうちに帰るんだよ

K-POPアイドルのコンサートではおなじみの、アンコール時のスローガンイベント、あるじゃないですか。東京公演も千葉公園も、こういった大掛かりなイベントはなく、アンコールも歌ってしゃべって写真撮ってまた歌っておしまい、という感じで、最後まで「ベッキョンのステージ」を味わえた。それでまた気が付いたことがあった。自分がファンダムの中にいるときの居心地の悪さについて。

 

私は、スローガンにも応援法にも、一種の同調圧力を感じていて、「なんだかなあ、どうして私は他人の仕掛けた”演出”に協力しているんだろう?計画された感動みたいなのは、私の好みじゃない。だけど、これをしないのも、演者からしてみたらさみしいものがあるんじゃないか?歓声が大きいほうがいいに決まってる。動員少なければもう二度と来日ないとか困るし…ああなんでコンサート行くだけなのに私はなんでこんなに気を病むの?」と、思い悩みながら、結局現場では声も上げるし、スローガンを掲げていたんです。でも、もやもやしていた。

 

これがベッキョンのコンサートを経て、「あ、自分はあのイベント、嫌だったんだ」とかなりはっきり自覚できた気がしました*2

誰にも自分だけの感動を邪魔されない、私だけの感動を持って帰れる、だれともひとつにならなくてもいい、それで私には十分だったんだ、もちろんファンダムの中に埋もれる快楽も知っているけど、それだけじゃない、私だけの感動を持ちたかったんだ。

「スローガンがない」という状況それひとつで、私の気持ちはかなり、救われた。もちろんイベントがないことにつまらなさを覚える人もいるだろうし、イベントするなとも思わない。ただ自分のなかで、「これからはもう、別に、誰かと同じ感情にならなくてもいいんだ」と、蹴りがついた気がする。

 

私は、音楽が好きで、楽しみたくてコンサートに行ってるのに、ファンとしてのプレッシャーに押しつぶされて気を病んだらそれこそ本末転倒。コンサートの現場で、自分が本当に楽しいって、自分だけの感性で捉えられることが、重要だったんだ。

 

 

「私だけの感動」の語彙を書き換えよう

とにかく東京公演で私はとんでもない感動を受け取った。でも、この感動をどう表現したらいいのかわからなくて、公演後に「Stay Up1曲だけでチケット代の元が取れた」みたいなことをツイートしてた記憶がある。「ベッキョンのコンサートはコスパが良すぎる」みたいなことも言ったと思う。

でも今振り返ってみると、そういう「コスパ」「元が取れる」みたいな、経済面でのメリットを表す語彙を使うこと自体、私はかなり「オタクをすること=惜しみなくカネを使うこと」という価値観に縛られてるんだなと気づいた。

 

パンデミック以降のチケット代が高くなったというのもあるし、自分が低所得者だというのもあるけど、「無駄なお金を使いたくない」という思考がかなり強くなってしまい、コンサートに関しても「この値段に見合った時間だったんだろうか…これならほかの公演に行った方がよかった…?」と考えてしまうことが増えた*3

お金払うんだったら、相応の見返りがほしい、コンサートのチケットを買ったんだったら、その現場で最高の舞台が見たい。けちになればなるほど、期待は高く、欲は深くなる。みみっちくて、がめつくて、ダサい。

そういう自分のダサくなった感覚が、「コスパ」とか「元が取れる」みたいな、経済の価値観と語彙で、芸術を評価しようとする姿勢を生み出したんだと思う。

 

実際は、お金でどうのとかではないんだと思う。確かにチケットを買って私はその場に行ったわけだけど、そこで体験した感覚は、本当は決して「支払った金額」と単純に比較できるものではない。経済とか、日常とか、そういう私の息の根を止めようとしてくる価値観を、たとえ一瞬でも吹っ飛ばしてくれるのが芸術でありエンタメの効用で、私にとってのそのひとつがK-POPだった。解放の音楽だったはずなのに、いつのまにか、私はそれを忘れて、「コスパが~」なんて言っていた。

 

お金をたくさん払って、サイン会に行ったり、接触イベントに参加したりすることに喜びを感じる人もいるし、K-POPは特にそういうビジネスモデルで収益を得てるともいえるので、大枚叩くほど良い思いをしやすい。ヒップホップアルエンビー界隈も同じで、来日公演には必ずと言っていいほど、VIP特典に撮影会がある。

ときどき、そうやってイベントに参加できている人たちを、まるで努力が報われているように見てしまうが、お金を使って権利を買っているのであって、それは「報われる」とは別の現象だと思う、むしろ「見返りを求めている」という方が近いだろうか。

刺激の強い見返りには、たいてい、とてつもない経済的負担が併発する。

さて、私が欲しかったのは、そういう、「刺激の強い見返り」だったんだろうか?

違うんじゃないか。

 

勢いよくお金を使って、至近距離でアイドルやアーティストと対面できることを望むのは、たぶん私のスタイルじゃないんだと思う。

私が欲しかったのは、別に席は遠くても、フロア後方でも、そこで流れる音楽が素晴らしくて、その時、その空間でしか味わえないバイブスを体感したくて、つまり音楽が一番大事で、音楽のために、誰かのことを好きになったり、応援したり、お金を払ったりしているんじゃないか。そして、その時体験した音楽が、あれなんだか、すごく高品質に感じるって、そうやって脳が揺さぶられる時間があればあるほど、私の喜びは増幅する。

 

 

終演後のペンラはスイッチ切らない限り虹色に光り続けます

 

感度が鈍ってもなお、それでも「これはすごいぞ」とわかるほどの、すばらしさを探していたら、ベッキョンが一番最初に、やってきた。

 

ベッキョンは吹っ飛ばした。私がその時、どんな価値観に飲まれていたのか。どれだけ世界が狭くなっていたのか。彼は、エンタメの力で、私の思考を突き破って行った。

ああ、ほんとうに、とんでもねえ「プロのエンターテイナー」だ。

 

 

 

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*1:これはチェンくんが好きだと言っていた影響が大きいけど!!韓国のコンテンツを消費する時間はどんどん増している。今はネトフリ等OTT何も契約してないけど、韓国のYouTubeチャンネルのバラエティ見ているだけでもだいぶ事足りてしまう…そこまでして韓国のコンテンツに執着して消費する理由は、まだ自分でも明確に説明できないんですが、まあ、とにかく抜け出せないK‐コンテンツの沼地。

*2:これについてはベッキョンがどうのっていうわけじゃないんだけど、たまたまそれを自覚できたのが今回だったっていうだけなんだと思う

*3:特に大きな契機になったのはチェンコンだ。ほぼほぼ最前みたいな席のチケットを持っていたにもかかわらず、その日私は家庭の事情で行くことができなくなり、本人以外利用できない、譲渡不可の券種だったため、「あれだけのお金を払って自分はチェンくんに会えなかった」という絶望がすごい深くて、それがかなり深い痛手になってるんだと思う